高橋竹山



高 橋 竹 山

魂が哭き響く -津軽三味線-初代高橋竹山の世界

「おらの三味線、くうための三味線だ」


  
「おらの眼(まなぐ)見えねぐなったのは、なんでも生まれてまだ二つになんねえどき、麻疹にかかった。むかしはいまとちがって、麻疹に風邪ひかせればゴロゴロ死んでしまうという話で風邪を家の中さ入れないようにしたもんだそうだ。おら家でもおらをだいじにして、だいじにしすぎて暖かいもの着せたり、湯たんぽいれたりしているうちに、おらあまりあつくてのぼせてしまったわげだ。眼眠ってしまって、滅多におがしいな、と眼あげてみたらすでにはあ、星かかってるんだ。すぐ医者さつれていったが、いまの医者とちがってむかしの医者だべ。盲腸も切りようしらねでみな死なせた時代だね、ただの眼薬よこして放っておいだのせ。あのころ麻疹で眼みえなぐなったものはずんぶあった、おらだけでねんだね。だからむかしは座頭出はったんだ。眼医者なんて、なも治す法知らねんだもの、なにほど盲あったかわからねえんだ、むかしは。それでとうとうおらは眼見えなくなってしまったんだえ。たいへんなもんであったな、むかしは。腹三日痛(や)んでコロッと死んでしまう人もいた、あれ、いま思うと盲腸せ、それ。盲腸手術する法わからねえんだもの、なにして眼治せるって。入れ歯する法もこのごろできたんだもの、なしに。これで結局われわれのような盲が出はったんだな、むかしは。おらと同じ年に盲になった子供が村に5人も6人もいた。おらはまだ生きてこうしているけど、みんなもう死んでしまったじゃ。川さ落ぢで死んだのもいるし、木から落ぢで死んだのもいるし。」

(「自伝 津軽三味線ひとり旅」より著 高橋竹山  発行所 新書館 1975.11.1 初版)



高橋 竹山(たかはし ちくざん)1910年(明治43年)6月-1998年(平成10年)2月5日)

 
高橋竹山は、明治43年(1910)6月、青森県東津軽郡中平内村(現・平内町)字小湊で生まれる。本名定蔵。幼いころ麻疹をこじらせ半ば失明する。近在のボサマ(戸田重次郎)の内弟子となり三味線と唄を習い、東北から北海道を門付けして歩いた。昭和19年(1944青森県八戸盲唖学校に入学し、針灸・マッサージの免状を取得。戦後は津軽民謡の神様と言われた成田雲竹の伴奏者として各地を興行、竹山を名乗る。この間、雲竹、竹山の名コンビにより津軽民謡の数々を発表。(りんご節、鰺ヶ沢甚句、十三の砂山、弥三郎節、ワイハ節、津軽願人節等は二人の作による。)昭和39年に独立、独自の芸域を切り開いて津軽三味線の名を全国に広く知らした。昭和50年、第9回吉川英治文化賞、第12回点字毎日文化賞を受賞、昭和58年には勲4等瑞宝章を受ける。東京渋谷にあった、「ジァンジァン」でのライブは多くの若者の心を捕らえて、全国に竹山の津軽三味線ブームをわき起こした。全国労音の公演他、ロシア、アメリカ、フランス等、海外公演でも高い評価を受けた。ボサマ(盲目の遊芸人)の門付け芸を芸術の域まで高めた陰には、風雪と社会の差別に黙々と耐えた人間的なたくましさ、三味線という楽器の持つ音楽性を愛してやまなかった懐の深さがあった。




「風雪院調絃竹山居士」

 
「びんぼうは、なんもおっかねえもんではなかった。金がないだけで、あたまやむ(あたまがいたくなる)わけでねえし、はらいたくなるわけでもねえ。
ただねえ。ひとがいっしょうけんめいやろうというとき、目のまえへでてきて、ばかにしたり、じゃましたりするやつが、いちばんにくかったね。
ひとがいっしょうけんめいに生きようとするのをじゃまするものには、けっしてまけない」
  日本人の心を震わせた不世出の天才、津軽三味線の名手・高橋竹山は、1998年2月5日、平内町立中央病院において喉頭腫瘍のため、八十七歳でこの世を去った。戒名は「風雪院調絃竹山居士」。




  
「三味線で苦労するのは音色だ。音色にもいいわるいがある。どうすればいい音がでるかということは、やはり勉強だ。これだけは習ったってできるものでない。手は習うことができてもいい音をだすのはその人の力と、考えと仕事で研究しなければならないことだ。三味線の音色は、自分の気持ちと指でつくっていくものだ。気持ちと指と一致させるのがたいへんだ。音はおなじ師匠から習っておなじ手でも人によってちがう。そこが面白いところだ。師匠から習ったことばかりで、いいというものではない。師匠のいい音色を頭にいれるということは、これは音だから眼でみてわかるものでない。おらの師匠は三味線は下手だったが、曲の筋道ははっきりしていた。師匠はいくら上手でも筋道しか教えられないし、また、上手は習われるものでない。それは自分でやることだ。師匠というものはまちがいのない基本を正しく教えれば、いい師匠だ。」





『寒撥 ~高橋竹山魂の響~』

  
津軽三味線の名人・高橋竹山が有名になるきっかけとなった、青森放送のドキュメンタリー番組をDVD化。脂の乗り切った62歳の撥さばきと、本人が語る人生の軌跡など貴重な映像を収録。タイトルの「寒撥」は“寒い映像”の意が込められている。



  
津軽三味線。この太棹の三味線ほど、人をひきつけるものは日本楽器の中でもそうあるまい。ある時は腹の底をえぐるような強い撥さばきとなり、またある時は華麗な曲弾きとなり、そして、またある時は繊細な高音部を現出する。糸は太い順から一の糸、二の糸、三の糸と呼ぶ。本来絹糸を用いるが、奏法上非常に切れやすいため、三の糸にはナイロンを用いる場合が多い。色は黄色で、これはかつて防虫効果のあるウコンを染め込んだ名残とされている。竹山の使っている糸は三本とも絹糸。普通に弾いても、一晩の演奏でもう切れてしまう。津軽三味線は特別演奏が激しいので、一晩に二本も三本も糸を切る人もいる。それで、今はみんな三の糸をナイロンにしている。竹山はナイロンの糸は使わない。むかしながらの絹糸だが、その細い三の糸を、二日も三日も使う。それでも切れないのだ。切れなくても、絹糸だから、糸がのびてしまったりバチで激しくこすられてけばだって音が悪くなるから、新しい糸と、とりかえる。古い糸は捨てないでとっておく。糸ばかりでない、どんなものでも粗末にしない。

「どんあものにもいのちがある。いのちあるものをそまつにしてはいけない。なにをやるにも、それにたましいをいれろ。いれなければ、生きたホンモノにはならない」



 このわずか三本の糸によって緩急自在、力強くたくましい低音部から繊細優美な高音部まで、数多くのバリエーションを伴いながら、津軽独特のリズム感を軸に曲が演奏される。演奏楽曲は、主として津軽三大民謡(津軽三ツ物)、および五大民謡(五ツ物)。三大民謡とは、「津軽じょんから節」「津軽よされ節」「津軽小原節」を指し、五大民謡とはこれに「津軽あいや節」「津軽三下がり」を加えたもの。数ある津軽民謡の中でも特に即興性が高く技巧に富むため、舞台で好んで演奏される。
現代では独奏楽器としての側面が強調され、吉田兄弟、木之下真市、上妻宏光らの若手奏者が独奏主体の演奏スタイルを確立しているが、本来の唄の伴奏が出来ない奏者も多くなってきており、これを憂う声も多く聞かれる。



津軽三味線『竹山流』について

一般的な三味線の奏法は胴の棹の近くの絃を撥で弾きますが、津軽三味線の場合はおもに胴の中ほどを胴に張ってある皮を叩く様に演奏します。津軽三味線には、大きく分けて2つの演奏法があります。バチを叩く様に弾く「叩き三味線」ともうひとつは、津軽三味線の名手として謳われた『初代・高橋竹山』が奏でた「弾き三味線」。弦の余韻を演奏に生かし、時には強く、またある時には優しく謳うように弾くのが特徴でとてもダイナミックな音がします。また、「前撥」「後撥」と言う奏法があり「前撥」は胴の棹よりを「後撥」は胴の中央を叩くことで音の強弱を付けたりリズムを付けたりして津軽三味線音楽にとっては大事なテクニックの一つです。左手のテクニックもほかの三味線よりもはじいたり、擦ったり指を動かす量も圧倒的に多いのが特徴です。

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「あんまりせづなくて、ボサマやめるじゃとおもって家さかえったことあった。あっぱ(母)はおらこをかわいそがって、やさしくむかえてくれたんだが、じい(父)のほうが、「こご、おめの家でねえ!」まなぐみえねえものがひとりでくっていけげねえんだら、日本中の、まなぐみえねえ人間は、みな死なねばまいねべね。バカこぐな」としかって、家さいれてくれなかった。
「なんぼでも、あんまりだ」と、おらはずうっとじい(父)をうらんでいた。が、あとになってじい(父)のあのときのきもち、わかるようになった。もしあのとき、じい(父)がおらば家さいれてくれていたら、おらはいまごろどうなっていたか。
 おらば家さいれてくれなかったじい(父)が、おらのことをいちばんしんぱいしてくれてたんだ。がまんづよかったじい(父)は、歯をギリっとかんで、がまんして、おらば家さいれなかったんだべ。
 ホイドのなかまが小湊さいったとき、おら家ではじい(父)が、
「定蔵も旅でせわになってるべ。どうかゆっくりとまっていってけへ」
と、なんにちもとめて、ごちそうしてくれたと、あとで、なん人もの人からきいた。」




 津軽三味線の名手、高橋竹山は、1926年十月ボサマとして独り立ちした。十六才だった。ボサマというのは、門付けしながら放浪する盲目の旅芸人のことである。二歳で視力を失った貧しい少年の生きる道は、ボサマになるしかなかったのだ。
近世、盲人音楽家は平家琵琶を専業としていましたが、三味線の輸入に伴い、専従する人も現れ、三味線は近世音楽の代表的な楽器となり、人形浄瑠璃や歌舞伎芝居にも取り入れられ、江戸時代には小歌、端歌など多種多様の様式が生まれては消えていきました。高橋竹山は15才で梅田豊月の弟子である藤沢の戸田重次郎に弟子入りをしています。
2年で独立した高橋定蔵は生きる為の門付け、唄会興行、映画館の楽隊、浪花節の伴奏等をしながら津軽民謡の至宝、成田雲竹に出会いますが、熱狂的な唄会ブームや芸人の荒んだ生活に背を向け一人で門付けを続けます。ところが、戦争のために門付けも不可能となり、浪花節興行に入ったものの一座の座長に偽られ娘の死をも知らされなかったことから、興行での三味線を辞め、35才で八戸の盲唖学校に入学、按摩や鍼灸で生計を立てようとします。




   戦争が終わり、鍼灸業を始めた高橋定蔵は、戦前には雲の上の人であった成田雲竹に抜擢され、伴奏者として再び三味線を手にしました。
 成田雲竹は、唄会興行で見られる派手なだけの節回しや、猥雑な歌詞を嫌い、酒(金と座興)の席では決して歌わず、献身的に津軽民謡の発掘、普及に取り組んだ、まさに津軽民謡の父と言える人です。
 高橋定蔵はラジオ青森の民謡教室や雲竹の公演に同行し、昭和30年頃からは成田雲竹のつけた「竹山」の号を名乗るようなりました。
 それまでは津軽民謡、津軽三味線といっても、わずか数曲を手を変え、節を変えて演奏していたものでしたが、成田雲竹の専属伴奏者としての約15年の間に雲竹が見いだした津軽の古い唄の数々や雲竹の作曲した唄に三味線の手をつけ、幾多の津軽のうたが津軽民謡として形を整え全国に知られるようになっていきました。昭和39年、竹山は初の津軽三味線の独奏だけのLPレコードを出しました。この年、成田雲竹が引退、竹山は労音を中心に全国を「現代的な門付け」行脚をスタートします。この時から、成田雲竹の最後の弟子、(財)日本民謡協会 日本一を獲得し、名実ともに津軽民謡のトップとなった須藤雲栄が唄い手として同行、目の不自由な竹山を支えて10数年にわたって渋谷ジャンジャンをはじめ労音等によって全国各地での演奏活動を展開しました。ここに空前の竹山ブームが巻き起こっていきました。
1986年(昭和61年)にアメリカ公演をし、これが世界に津軽三味線の名を知らしめるもととなった。その存在、演奏は国やジャンルは違うがブルースで言うところのロバート・ジョンソンに匹敵する。晩年は声もほとんど出せなくなっていたが衰えを自覚しながらも現役を退かなかった。1998年2月5日声を失なう原因となった咽頭癌により死去、享年87。




 「三味線で苦労するのは音色だ。音色にもいいわるいがある。どうすればいい音がでるかということは、やはり勉強だ。これだけは習ったってできるものでない。 手は習うことができてもいい音をだすのはその人の力と、考えと仕事で研究しなければならないことだ。
 三味線の音色は、自分の気持ちと指でつくっていくものだ。気持ちと指と一致させるのがたいへんだ。音はおなじ師匠から習っておなじ手でも人によってちがう。そこが面白いところだ。
 師匠から習ったことばかりで、いいというものではない。師匠のいい音色を頭にいれるということは、これは音だから眼でみてわかるものでない。
 おらの師匠は三味線は下手だったが、曲の筋道ははっきりしていた。師匠はいくら上手でも筋道しか教えられないし、また、上手は習われるものでない。それは自分でやることだ。師匠というものはまちがいのない基本を正しく教えれば、いい師匠だ。
 学校の先生も同じだと思う。先生のように生徒にやれ、といってもできるものでない。基本をしっかり覚えれば、あとはその生徒に頭があれば、先生以上にやりたければやればいい。その筋を忘れないで勉強させれば教わったものは生きた力を出していく。
 芸もその通り、師匠の教えた筋、規則を守らないで、早くうまくなろうと思って基本からはずれたり、自分のやりやすいものをやるのではろくなものにならない。そういうのはいつまでたっても同じで、なるほどというところがなにもなくて終わってしまう。
 才能のある人は、同じに習ってもたいへんうまく師匠から習った型を生かしてやる。才能のない人は師匠から型を習っても、型を忘れてしまって手前勝手にやる。
 こうした人はうんと努力しているのに何年やっても上達しない。どうでも努力すればいいというものではない。」

(「自伝 高橋竹山 津軽三味線ひとり旅より」著 高橋竹山   発行所 新書館  1975.11.1 初版)






 
「三味線は好きだ、でもボサマになって歩くのだけは嫌いだった。あんな事は恥ずかしくて出来ないと思っていた。三味線をやれば皆、あの様に歩かないといけないと思い込んでいた。そうこうしているうちに、友達は小学校を卒業して、みんな町に働きに出る。あの頃は職を習いに奉公に出たものだ。私は何もしていない。私も働かないとと思っても、どこへも行けない。
ぐずぐずしていたものの結局、好きでないけど三味線を習いにボサマのところに行くしかないと思うようになった。その頃はまだ少しは見えていた。1人で歩くだけなら見えていたんだ。」

~高橋竹山 自伝 津軽三味線一人旅より~



 1973年(昭和48年)12月、東京渋谷の小さなライブハウス「ジァンジァン」(客席数は120)を埋めた若者たちは、時には地吹雪のように激しく、時には音も無く降り積もる雪のような、津軽三味線の独奏にはじめて接し、その変幻自在な津軽三味線の音色の世界に酔いしれ、演奏の途中で何回も拍手が起きるという音楽会では異例の興奮に包まれていました。それは三味線一丁、高橋竹山一人だけの津軽三味線演奏会での光景です。特にこの時演奏された「即興曲・岩木」は、三味線という楽器の持つぎりぎりの可能性に挑み、津軽に根付いた音を竹山独特の感性で研ぎすまし、従来の津軽三味線の枠を突き抜けた新しい響きとドラマを生んだものとして、若者たちの心に深く突き刺さっていったのでした。高橋竹山のこの演奏は日本の音楽シーンに“津軽三味線の独奏”という新たなジャンルを切り開いたのでした。そしてこの演奏会を契機に、高橋竹山の名は全国に轟き、津軽三味線の響きが日本の隅々にまで鳴り渡るようになっていくのです。さらにアメリカやヨーロッパ公演も成功させるなど、海外でも高い評価を受けた。竹山のジャン・ジャンへの出場回数は、通産320回に達している。



『独り語り・三味線は津軽の匂い』
津軽じょんがら節/津軽よされ節/津軽中じょんがら節/即興曲「岩木」

明治43年、青森県東津軽郡で生まれた高橋竹山は、幼い頃に病気が原因で視力をほとんど失ってしまう。"生きていくため"に三味線と唄を習った竹山は、"門付け"をして東北・北海道を回って歩いた。門付け生活は貧しく辛いものだったが、そこで磨かれたその至芸は戦後になって徐々に評価を高め、'70年代には渋谷ジャンジャンでの演奏をきっかけに空前の"竹山ブーム"を巻き起こす事となった。さらにアメリカやヨーロッパ公演も成功させるなど、海外でも高い評価を受けた。ある時は悲しく、ある時は激しく、そしてある時は優しく…竹山の紡ぎ出す音は人間の五感全てに訴えかけてくる。晩年の竹山の"魂の響き"は、"達人"の境地に達した者だけが持つ何かを我々に感じさせてくれる。その竹山も、1998年2月に87歳で惜しまれながら他界した。本作は、竹山の演奏にインタビュー映像を織り交ぜて収録。彼の演奏と共にその人柄にも触れることが出来る、貴重な映像作品である。



『その人生~音は枯野をかけ廻り』
即興曲「岩木」/津軽よされ節/津軽中じょんがら節/津軽山唄/津軽小原節/津軽よされ節

本作は、竹山の生涯を自らの語りと遺された貴重な演奏映像で綴るドキュメンタリー作品。至高の境地に達した竹山の演奏とその生涯を、じっくりと味わうことが出来る。



『名演集・魂が哭き響く』
津軽じょんがら節/津軽よされ節/津軽中じょんがら節/即興曲「岩木」/津軽小原節/津軽あいや節/津軽音頭

本作は、竹山が生前に残した映像から代表的な名演を集めて収録した貴重な作品。日本の一つの時代が生み出した"至高の芸"を、全ての人々に堪能して欲しい。





『竹山ひとり旅(1977)』
高橋竹山の津軽三味線に賭けた放浪の青春時代を描く。竹山自身が画面に登場するなどドキュメンタリーとフィクションの枠を取り払った意欲作。モスクワ国際映画祭監督賞受賞。

■監督:新藤兼人 ■制作: 近代映画協会、ジァン・ジァン
■出演:林隆三 /乙羽信子/倍賞美津子/佐藤慶/観世栄夫


「映画は雪の場面が多かったから、撮影は困難を極めた。十三湖の海辺は烈風で空も灰色、怒涛のなかから雪の礫が飛んできた。俳優もスタッフも、風の中に立ちすくんで、一コマ一コマと撮りすすんだ。竹山も、このような中で、一握りの米を恵んでもらうために、家々の門に立って三味線を弾きつづけたのであろうか。竹山はのちに名人と呼ばれるようになったが、名人になるために竹山は三味線を弾いたのではない。生きるために弾いたのだ。
 竹山のたくましさは、人生のどん底を覗き見たものの強さだった。映画は竹山の足跡をたどるようにして作ったが、竹山のふところは、いくらはいっても壁というものがなくはかりしれない大きなものを感じた。映画の外でもわたしたちは竹山から多くのものを学んだ。
映画「竹山ひとり旅」は。わたしの代表作である。」

(新藤兼人「評伝 高橋竹山 魂の音色」松林拓司 著 あとがき より抜粋)




『津軽じょんがら節(1973年)』
津軽のさびれた漁村の故郷にイサ子は、ヤクザ同士のいざこざで人を刺した男と戻ってくるが・・・流麗な映像で“日本のルルーシュ”と異名をとる斉藤監督が、都会をはじき出された男女の姿を通して、人と風土の関係を描く。荒々しい日本海、高く響く津軽三味線の音色といった土着的な世界と男女の愛の対比も見事。1973年の日本映画各賞を総なめした話題作。
■監督 斎藤耕一 ■脚本 中島丈博 、斎藤耕一 ■挿入絵・考証 斉藤真一
■音楽 白川軍八郎 、高橋竹山 、若美家五郎 、大瀬清美 、海童道
■出演 江波杏子 、織田あきら 、中川三穂子 、西村晃 、佐藤英夫




















斎藤真一 <プロフィール>

 
1922(大正11)年、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市味野)に生まれる。
尺八の大師範を父にもち、幼少の頃より芝居、浄瑠璃、浪曲といった日本古来の芸能に興味をもつ。
岡山師範で岸田劉生の作風に惹かれてデッサンの勉強に励む。
1941(昭和16)年、19歳のとき、上京して川端デッサン研究所に学ぶ。
翌年、東京美術学校師範科(現・東京芸大)へ入学。
在学中、学徒出陣で海軍に3年従軍する。
1948年、東京美術学校卒業。
戦後静岡県伊東高校に勤めるかたわら制作をつづる。
第4回日展に《鶏小屋》で入選を果たし、以後、岡山、静岡などの学校で教鞭を執る傍ら、
日展、光風会へ入選し、画家としての基盤を築きあげる。
1959年、パリ留学。ヨーロッパにジプシーなどの芸人を求めて放浪生活を送る。
フランス、イタリアを中心に、ヨーロッパを制作旅行し、 藤田嗣治と親交を結ぶ。
帰国後、津軽三味線の音色にひかれ、東北地方を旅するうち瞽女(ごぜ)を知る。
1960年代から70年代にかけて津軽、北陸を旅して、盲目の旅芸人「瞽女」(ごぜ)に出会い、
その後の彼の大きなテーマの一つとなった《瞽女》シリーズを手掛ける。
1971(昭和46)年、第14回安井賞展佳作に入賞。
越後、信濃に瞽女を訪ね歩き2年目に高田の杉本キクエさんに出会い、多くの瞽女の遍歴した足跡を記録。
瞽女の心象の世界を描き続け独自の画境を生む。
『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年・日本放送出版協会刊)は、第21回日本エッセイストクラブ賞を受賞。
『越後瞽女日記』(1973年・河出書房新社刊)は、同年のADC賞を受賞。
人人会は5回展で退会。
1985(昭和60)年には、明治期に浅草、吉原に生きた遊女の実態を検証し、《明治吉原細見記》を描き、
絵画シリーズとともに、『絵草子 吉原炎上』(1985年・文芸春秋刊)を出版し、映画や舞台で広く上演される。
1994年9月18日没、享年72才。




「ドキュメント日本の放浪芸 小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸」より

■瞽女(ごぜ)

 瞽女とは、三味線を携え農村・山村を巡る盲目の女性遊行芸人である。ゴゼサン・ゴゼサなどと呼ばれた。「一年のほとんどが旅で明け暮れ、目的の村に着くと<瞽女宿>という泊まりつけの家に荷をおろしては、家々を門付けし、夜になれば、村人が集まり瞽女の本領である段物や口説、民謡などをきかせ、喜捨の米や祝儀が収入となった。」(「新潟県県民百科事典」)新潟県内では、高田瞽女・長岡瞽女が2大組織だが、柏崎近辺では刈羽瞽女とよばれる集団が存在した。



 
「子供の頃から山は大好きでした。山が好きだとというのは結局小鳥好きなわけですよ、ずいぶんいい鳥いたもんですよ、ツグミ、ルリはいる、カッコー、ホトトギス、ま、たくさんおりました。今、やっぱりどういうわけか鳥はあまり山におりません。私、山へ今もひまみて山へ行きますよ。鳥は余りおりません。何とさみしいような気持ちがします。山へ行っても元のようにあういう鳥はいねえもんだから、もう一回も聞きたいなと思いますよ。鳥の声はいいでっす。あたしは山へ行けば鳥と二人きりでしょう、私と。なんともいえないいいな鳥の声・・・・。」






二代目 高橋竹山

本名=高橋房子 1955年東京生まれ

 幼少の頃に三味線に出会い、11才で稽古を始める。

  
17才の時、津軽三味線奏者の高橋竹山のレコードを聴いたのがきっかけとなり、18才で竹山の内弟子となる。三味線のみならず、名人とうたわれた故・成田雲竹の格調高い津軽民謡も師・竹山から学びながら、高橋竹与(ちくよ)の名で師・竹山と共に舞台に立つ。内弟子生活6年を経て1979年に独立。翌1980年、初の独演会を東京・渋各ジァン・ジァンで開く。以来、独自の演奏活動を行いながら、師・竹山について日本国内はもとより、1986年のアメリカ7都市公演、1992年のフランス・パリ公演など、海外でも共演している。
 基本を大切にしながらも民謡にこだわらず、様々なジャンルの演奏家たちと共演して活動の場を広げながら、独自の音楽表現を模索。伝統にモダンな現代感覚と女性らしい繊細さを盛り込んで精力的にライブ活動を続ける。
 1995年、春。師・竹山から独立して15年目を迎えたのを期に、初のCDアルバム「津軽三味線とその試み」(ディスク ジァン・ジァン)をリリース。三味線独奏曲や師・竹山との三味線二重奏曲などの他、天才劇詩人として時代を駆け抜けた故・寺山修司が生前に竹与の為に作詞し竹与自身が作曲した『さらば東京行進曲』『歌のわかれ』『せきれい心中』『紅がすり抄』、北海道民謡「江差追分」とアラブの民謡をベースにした、ヴァイオリンの太田恵資との即興的セッション『北の唄』、三味線とジプシーヴァイオリンが交錯するトルコ舞踊曲『ロンガ・シャーナーズ』などを収録。  1997年 1月、「高橋竹与」改め「二代目・高橋竹山」を襲名。襲名披露演奏会(ゲスト出演=初代・竹山)を渋谷ジァン・ジァンで開く。




 「基層文化(文化の生産工場)から出て都市文化の風土に居を移すことによって、新たな文化の領域を創出させることになった例がいくつかある。ジャズがそうである。都市文化に居を移して、能として完成した猿楽、そのシンボル的人物は観阿弥、世阿弥の親子だ。出雲の念仏踊りをもって京都四条河原にやってきて歌舞伎を創始した出雲の阿国も同様だ。個人としてはアフリカ・ガーナの音楽家カラクバ・ドジ、津軽三味線の名人・高橋竹山である。」

(「現代音楽の冒険」(岩波新書)間宮芳生 著)







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